玄花's Diary

玄花の徒然ブログ<オフィシャル

動きたい方へ動く、強引グ・マイウェイ



2014年5月のメルマガより。




ある意味自分を整える。
セルフケアの時期でもあります。
自分の意識とは関係なく、宇宙と共振するようにケアされて行く。


物でも人間関係でも、壊れるものは壊れるし離れて行くものは離れて行く。


まずはそこで抗わないこと。
いわゆる起きる出来事に全て「YES」と一旦受け入れてみる。


受容の次には、それについて、過去の経験から判断(ジャッジ)をしないこと。


壊れるものが壊れたから「それはやるなって言うことね」と判断(ジャッジ)する場面ではないという事です。


自分を邪魔しているように見える現実の時も、「これはやるなって事ね」なんて引くことなくその流れを強引に突き破って進んでいいんだよ。


流れを読む空気を読むのではなく、流れを創るし自分の空気を創っていいのだ。


今はとにかく何が起ころうとも、「で、どうしたいの?やりたいの?やりたくないの?」と問われているんです。


壊れるものや離れるものは否定しないけれど、私は私の道を行く、それが今。みたいな。


強引グ・マイウェイ



だいたいさ、上手く行くものは全てぴったりとタイミングが合うって、どんな刷り込みだ。そういうスピリチュアル的宇宙の法則的刷り込みってある。


色々なステージを経てその段階にいる人もいるけれど、だからと言ってタイミングが合わないものが否ではない。


そう決めている自分がいるだけでさ。




でね、そういう一見負に感じる出来事を全部振り切って向かう先に行ってみたら、それがすんごい当たりでびっくりするくらい自分に必要な事だったりもするんです。


自分に必要な事は何の障害もなくスムーズに行く、という思い込みはキャンセルしてもいいんじゃない?


子ども3人育てるお母ちゃんとしては、スムーズに行こうが何を邪魔されようが日常レベルにおいてやる事はやる訳です。


何があっても子どもに飯食わせる事はやり遂げる、くらいなね。



ワクワクするからやるとかすら置いておいて、やる事をやるのみ。


自分の本質に生きるためには被害者意識を持たないとはよく言われますが、自分以外の状況のせいにして「これはやるなって言うことね」に逃げていないか考えてみるのもいい。


タイミングが合わないとか、結構周りの状況のせいにしてない?それも被害者意識の一端。


それは実はただやりたくないって事なのかもしれないし、お金がない事の言い訳かもしれない。




直感で「これはやるなって事だな」って感じる時と、「自分がやりたい事を状況が後押ししてくれないから、これはやるなって事だな」と判断する事って似て非なるもの。


特に今は空の天体の配置によってやりたい事を後押しされている時期です。周りが反対者ばかりだとしても。



ただ、魂の向かう方向へ。
より、魂の向かう方向へ。



人間の身体ってね、動く方、動きやすい方に行くに任せて優しく動かしてあげてしばらくそうやって動きを追いかけていると自然に動きが出て来るの。操体法のやり方ね。


そうしてしばらくすると動きが出て来る。




身体が動く方に動いて行くだけでいい。


それを音楽に合わせてやったらもうそれは紛れもなくダンスなんだよ。最近歌いながら身体が動くに任せてる。


肚からの大きな声を出す時には、身体は自然に絞り込んで、声を出しながら花開くように動くんだよ。


何人(なんびと)たりとも私の行く手を妨げる事は出来ない、なんて思うくらい、動きたい方に動いていい。


私はダンスが苦手って意識がずっとあった。でも動くに任せる事を自分に許したら、それが自分のダンスになって来た。


最近それを体感できるようになって来た。



クラニオセイクラルセラピーというセラピーで身体に触れる事が多いけれど、身体が動きたい方向に寄り添っているとも言える。



状況がどうであれ何であれ、自分の魂の行く方向へ行く。


もっと簡単に言えば、好きだろうが嫌いだろうが怖いだろうが嫌悪感を持つだろうが、そうやって自分の気を引かれたものの方へ動いてみればいいんだよ。


そうすると自然に動きが出て来る。
そしてじきに勝手に動き始める。



行きたい先が見えない?感じない?


それにはまず、「今何を食べたいか?」がわかる事から入るのがやりやすい。何を食べたいかわからなければ、食べたい欲求が湧いて来るまで食べないでいるのもいいんだよ。


そうやって自分の身体と対話するところから自分に向かい合うのもいいもんだ。自分の身体が整うと、それは周りに伝わる。




私は子ども3人のお母ちゃんなので、何よりも子どもを守りたい、子どもを癒したいと言うのは当たり前に湧く感情です。


ただ、クライアントさんの子どもに対するセッションの経験と自分の経験も踏まえて言えば、お母ちゃんが緩めば子どもも緩む。




お母ちゃんが緩めば子どもも緩む。


この「緩む」というところに、「自分のために生きる」「元気になれば」と入れてみてもいい。自分をさて置いて子どもに向かったことがあるから言えるんだ。


そこを超えて今、子どもとの時間を物凄い大事にしている。何よりも私の心身のために。


セルフケアの時期。
自分を整える時期。
そのタイミングに乗ろう。
 
 
そして一度そこを超えると子どもとの時間もまた自分にとってかけがいのないものになる。




先日、LALAサークルという主催している歌のサークルでの一場面のこと。


人前で歌う機会があまりなく、緊張して歌いだせない方がいました。そんな方を前に「がんばって!」と祈りを(念を?)送るのはエネルギー的にはありがた迷惑です。余計歌えなくなる。


そんな時でも向かうは自分の内側
そのハートの次元に入って行く。
 
 
なぜならその感情は自分の内側で起こっているドラマだからです。
 
 
そんな事を話しながら、LALAサークルの面々は一斉に自分に向かい始めました。


そうしたら、歌えなかったガチガチの彼女がすっと歌い出した。その声はとても素敵で、聞いている私たちを癒す力を持っていました。


そんな彼女からLALAサークルの翌日にお礼として朝丘雪路のアチューンメントが飛んで来ました。


朝丘雪路さんに象徴される豊かさの塊と共に(笑)


切符一つ自分で変えない、くらいでちょうどいいってやつです。




旦那が亡くなりいわゆる自分の稼ぎで子ども3人を育てているのが私の現状ですが、「ただそうである」と言うだけで自分で稼ぐことが恰好いいとも悪いとも思っていない。


自分の力だけで稼いで子どもを育てるぞ!なんて腕まくりした事もないです。


旦那がいる時は10年以上のほほんと専業主婦と子育てやっていましたし、その立場に罪悪感も無かった。




「私は自分で稼げていない」っていう専業主婦の方がいるけれど、パートナーの財や実家の財も、それ含めて自分の豊かさじゃない?(男女問わず)


ふと私は、パートナーの財や実家の財を受け取る事にこれっぽちの罪悪感も感じていないんだなって書きながら気づいた。


それって、自分を出し惜しみせず、自分でそこに在れるからなのかもしれない。自分を出し惜しまずって、ただそこにいるだけでってやつだけど。




全ては私の現れであり、誰かの言葉は私の言葉で、誰かに対して腹が立つのは結局自分に対して腹が立ってる訳で……そんな事が段々とわかって来ているのに


「自分でなんとかしなきゃ」と言うことに固執していたらどうだろうか?どんな現実が展開すると思う?





どんな現実もそれは自分の感情を引き出すトリガー(引き金)


罪悪感や自責の念、怒り、悲しみ、虚しさ、後悔、憤り、拒絶感……


自分から湧き出る感情のオンパレードに、ワクワクしてもいいんじゃない?


だって人間万事塞翁が馬だぜ。


私は女性性が閉じてるとか、私はハートが閉じてると、自分で自分をそう思っている人っているよね。私はずっと、私は受け取り下手であると思い込み続けて来た。


結構周りからの好意を受け取っているのに。


閉じてる=悪いことではない。
受け取り下手=悪い事ではない。


ただそうである、と自分が思っているだけの事である。


私は自分の限界を知っているしちっぽけな人間だと思う時があるよ。


だけど、ちっぽけ=悪いなんて思っていない。これっぽっちも。


だから、「自分はちっぽけな存在だ」って言うのを謙遜で言ってる訳ではなくて、ただそうであるとその時の私が認識してるよってだけの事です。


ほんと、ちっぽけだしね。笑


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